8.15ソウルの暑い夏
個展を開催して

教科書、靖国…あらしの中で
 教科書問題浮上により揺れる日韓関係。今まで大切にしてきたさまざまな日韓交流行事が、次々にキャンセルになっていく。とうとう日章旗も焼かれたことは、その時滞在していたローマで知った。
 八月十四日から十九日までの韓国のソウルギャラリーで開いた個展。台風も心配どころではなかった。開幕まで毎日のニュースが、ゆううつであった。
 韓国の作家、劉光相氏に韓国の状況を聞くが、至る所でデモが行われているとのこと。聞けば聞くほど不安は募った。それでも、刷り上がったパンフレットをソウルギャラリーや韓国の美術評論家、申恒燮先生、劉氏に発送した。
 七月十七日、不安は頂点に達する。劉氏に、「ソウルギャラリーとギャラリーの経営者、大韓毎日新報社とで決めている会期通りに個展を開催できるのか、もう一度確認していただきたい。その結果すぐにソウルに行く」と伝える。
 今回の個展を企画していただいた、美術評論家ヨシダ・ヨシエ先生も大変心配され、電話やファックスを何度も入れてくれる。ヨシダ先生は、韓国の美術評論家、申先生を私のアトリエに連れてきてくださったのをはじめ、推薦文を出筆、韓国語の翻訳を二男の吉田亜津史氏に、英訳をヨシダ先生の友人のスタン・アンダースン氏に頼んでくださるなど、大変なご尽力をいただいている。

 一方、運送業者からは、「今回はどんなハプニングが起こるのか分からないので、出荷を急ぐように」とせかされる。大変な時期の個展。多くの人々にご迷惑をおかけし申しわけないと思っているうちに、だんだん腹が立ってきた。
 朝鮮半島や中国・アジアの人々に対し、日本人が行った歴史的愚行の後始末を、なぜ、ドイツのように早く、日本政府は成しえなかったのか。戦後生まれの私たちは、両国の過去の不幸な歴史を乗り越え、新しい時代にふさわしい友情のきずなを構築しなければならないのに。そして韓国と日本の作家たちの熱い交流の懸け橋役を務めなければならないーー。そんな気持ちと焦りと不安の日々が続いた。
 七月二十二日、劉氏より電話で、大韓毎日新報社役員会で、「武内光仁先生の個展は、隣国の友人として扱う」と決定したとのうれしい知らせが入る。日本人初の個展だから、さまざまなわだかまりを乗り越え、十二分な配慮をしてくれたのだろう。三日後、南国市白木谷のアトリエからグランドピアノ一台、作品十一点、付属部品及び組み立て木枠など、四トントラック満載で出荷した。

 二十八日に行ったソウルでの事前の打ち合わせでは、教科書問題や新たに浮上してきた靖国問題は重大で、今年の解放記念日(八月十五日)は、今までにない大規模なデモになるらしい。私も腹をくくった。十四日に個展を開催できれば、十五日以降は閉鎖しても仕方がない。かつて、ビュッフェがモスクワで初個展を開催したが、大雪のために一週間、だれ一人見にこれなかった事実を思い出した。
 八月六日、神戸より二・三×二・三×一二メートルのコンテナの中に六個の大きな木箱に入った作品は、韓国に向け出発した。十二日、私は工具の一部や追加のパンフレット、県立美術館が制作したアート電車のチラシなどが入った重い荷物を持ってソウルに入った。
 翌日、朝からの大雨が午後一時半ごろピタッとやみ、青空に変わった。天は私に味方してくれた。午後二時半、二トントラック三台の荷物と大きなフョークリフトが到着。まずは十二枚パネルの作品「独裁者」より開封。次はグランドピアノと次々に木箱を開けた。
 アルバイトの大学生五人が、搬入・陳列を手伝ってくれる。私はピアノを調律師にお任せし、「指の中のコスモス」(二・一×一〇メートル)と名付けた作品から組み立て、陳列していった。陳列終了は翌朝五時半。十五時間を費やした作業だった。
 申先生に頂いた世界日報、大韓毎日新報など四紙のうち、二紙に私の個展の記事がでている。そして小泉首相が靖国に参拝したことも知らされた。

56年ぶりの日本語に感涙
 八月十四日、いよいよ個展開催の日を迎えた。ソウルギャラリーが入っているプレスセンター前の八車線道路わきに「武内光仁個人展」と書いた大きな看板が立っており、身の引き締まる思いがする。
 午後三時、美術評論家のヨシダ・ヨシエ先生、中野中先生が来てくださった。しっかり握手し、「九十五坪の会場でも狭いなア」と言ってくださった。駐大韓民国日本大使館参事官の猪狩氏、三等書記官の坪田氏も、この時期の個展開催をねぎらってくれる。
 韓国の洋画家ナンバー1の権先生や金先生、雲甫美術館の白石理事長、光州市立美術館の金学芸室長や女流画家の寒氏や李氏ら百十人ほどが出席したオープン式典は、皆さんの表情も明るく、笑いの式となる。パーティーは二十階のインターナショナルルームで開いたが、いすの数が足りなくなり急きょ隣の部屋も借りた。
 ヨシダ先生のあいさつの後、八十三歳の権先生が「武内先生、個展おめでとうございます。今日は先生のため『出舟』を歌います」と言って、日本語で歌って下さった時は、必死で涙をこらえた。和気あいあいの三時間、多くの作家たちと手を取り合い、友情構築できたひと時だった。
 翌日は解放記念日。早朝より大変なデモが、至る所で行われていると聞く。急いで会場に行くと、何とプレスセンター前にも道路向こう側にもズラリと機動隊のバスが並んでいる。バスの中には若い警察官が大勢いた。ギャラリーの館長に、今日のデモでこのソウルギャラリーや表の看板は大丈夫かと尋ねた。

 館長は落ち着いた声で、「デモ隊の一人も、このプレスセンターには入れません。もし入れば警察トップの首が飛びます。ただし皆さんの昼食はこのビルの地下で済まし、夕方まで外出しないほうが良い。殊に和服を着ているヨシダ先生は」と話してくれた。
 昼前、小柄な年配の方が話しかけてきた。「武内先生、おめでとうございます。素晴らしいダイナミックな個展ですネ」と一言、一言をゆっくり話す。「ありがとうございます。日本語がお上手ですネ」と答えると、彼は、「私は、今日、今、五十六年ぶりに日本語を話しています。五十六年ぶりだから、あまり上手には話せません。でもほんとうに素晴らしい個展です」と言う。
 話しながら自然に涙がほおを伝わり、ポタポタとソウルギャラリーの床に落ちた。私は一言も話せなくなった。その方との会話をヨシダ先生に代わっていただき洗面所に飛び込む。ほおを伝わる涙は止まらない。顔を洗い、出ようとすると、ヨシダ先生も泣きながら入ってきた。ヨシダ先生と抱き合い大泣きした。
 「武内君、大変だったけど、個展開催して良かったなア。五十六年前日本から解放された時から『もう二度と日本語は使わない。いや使うものか』、そう思って今日まで彼は生きてきた。でも武内君の個展が素晴らしいから、彼は今まで使わなかった日本語を思い出しながら、必死で話している。これこそ日韓の心と心の真の交流だぜ。よかったなア」
 ヨシダ先生は私の手をしっかり握って、そう言った。
「私も昨日感じました。年配の皆様がたどたどしく話す日本語を聞き、過去の不幸な歴史の深い傷跡を体で感じました」と答えた。

 その後高知大学教授の刈谷氏や立教大学司祭の香山氏、松山から広瀬画廊の広瀬氏ら日本の方々も来てくださった。十八日には元厚生大臣の權彝赫先生に、朝鮮ホテル一階のレストランでごちそうになった。權先生は、高知には多くの知人がいることもお聞きした。
 ギャラリーに帰ると、前夜、大韓毎日新報社の役員会があり、今回の個展を大評価してくださり、二〇〇二年より毎年一人の日本人の個展を開催することが決定したという。数多くの韓国の皆様にご高覧いただいた個展は十九日に終わったが、搬入から搬出までずっとビデオ撮りしていただいた評論家の申恒燮先生は貴重な記録を作ってくださった。 
 今回を振り返ると、アーティストの枠を超え、さまざまなことを考えさせられる個展であったが、純粋な熱い友情は決して忘れない。
 過去に覚えていただいた日本語。今後は、堂々と使ってほしいと願うものである。

2001年(平成13年)9月10日・11日 高知新聞に掲載

 

母の口癖から40年

 毎日毎日朝夕に「人並みの努力なら、人並みで終る」と言う母、武内花子の口癖は、幼い私にとって少しうっとうしく、人並みで終われれば上等ではないかと反発したことも多かった。

 母の余命数週間となった第十七回高知県展は、二兄にモーターの後ろにリヤカーを付け、ガタガタ道の白木谷−笠ノ川間の県道を通って県民文化ホールの会場まで初出品作三点を運んでもらった。搬入用紙に自分の名を書いた時、病床の母に県展初入賞か初入選の喜びを味わってもらえるかと思うと熱いものがこみあげてきた。その数日後、審査発表前日の前夜祭、土電ブラスバンドの演奏が流れ、何の心配もなく踊る人々、そんな姿をどれほどの時間見ていただろうか。クライマックスは西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」。その曲が流れた時、県展会場が開き、心配そうな作家たちが会場に入る。私も人をかきわけ会場に入った。
 不安と希望で体はガクガク震える。一室、二室、三室と見て回るが私の作品はない。初出品だから八室より先にあるだろう、そう自分に言いきかせ、かけ足で次々と室を回るが、とうとう作品はなかった。そして二階の落選作品置き場に行くと、ひときわ目立つように三点の作品があった。ガックリして会場を出る。土佐大津駅より白木谷まで自転車で帰る間、涙は止まらず、秋の夜空を見上げれば涙で屈折して夜空一面黄金色に輝いていた。
 午後十一時半ごろ帰宅し、涙顔を洗い、母に落選の報告をすると、残りわずかの命の母がにっこり笑い「あんたが落選するのは当たり前、昨日、今日絵を描き始めたあなたが入選するぐらいなら、学校の先生は苦労しやしないわね」。そう言われた時、私は寝ている母にすがり号泣した。それからしばらくした昭和三十八年十一月十七日、母は五十三才の若さで永遠の眠りに入った。同じ十一月二十二日にはケネディ米大統領も暗殺された。  

 生前の母に県展入選の喜びすら味わってもらえなかった自己の腑甲斐無さは今日まで忘れたことはない。その後、浜口富治先生に師事し、浜口先生の作品に向かう情熱、チャレンジ精神、個性の表現力、指導力、中央作家との動き、作家としての人間像、そして一人の個としての人間性等学び、浜口先生に少しでも近づきたいと思い努力してきた。
 二〇〇〇年六月東京・上野の個展開催で池田20世紀美術館(伊東市)での一人展計画が浮上した。翌年八月十四日から十九日まで韓国ソウルギャラリーで個展。教科書問題や靖国問題と韓国大揺れの会期ではあったが、大成功したことが高い評価を受け、翌月の九月十一日(ちょうどアメリカのテロの日)、東京で池田20世紀美術館の理事会が開催され、ここで私の一人展の日程が決まる予定であった。しかし、東京、静岡は台風。理事会は延期となった。昨年の第五十六回県展には、洋画部門の審査員として池田20世紀美術館の林紀一郎氏が来高。私の作品は一般審査作品より、はるかに厳しくチェックされたことを後日聞かされた。そして今年三月二十日、池田20世紀美術館の理事会でとうとう二〇〇四年四月一日から六月二十九日まで、展覧会のキャッチフレーズは『宇宙と人間の霊媒師ー武内光仁の世界』と決まった。

 池田20世紀美術館は誇るべき西欧近代のコレクションが数多くあり、一九七六年開館以来ピカソ、ダリ、岡本信治郎、池田満寿夫、島田章三、池田龍雄、猪熊弦一郎、宮崎進、針生鎮郎、木下晋、織田広喜、山本貞、五月女幸雄ら、常に現代の新しい美術を展示していて一人展では私が八十一人目となる。この美術館は天井高六メートルあり、館内の空間をうまく利用すれば今までにない展示となりそうで、先日の九月二十七、二十八日と、池田20世紀美術館理事会で美術評論家のヨシダ・ヨシエ先生が美術館右壁面に展示する高さ四メートル・横五十二メートル(四十枚パネル・キャンバス張り・制作中)の作品の下見にきてくれた。また、この機会に美術館の一室で四月一日より三十日まで、高新文化教室(武内光仁実践絵画幡多教室・白木谷教室)展を全員10号作品を出品して開催するが、メンバーとっては生涯忘れられぬ展覧会になるだろう。
 母の口癖から四十年、今やっと大きな歯車がゆっくり、ゆっくり動きだした。ゆっくりでいいから永遠に止まることなく、動くことを望みたい。

2003年(平成15年)10月6日  高知新聞 「月曜随想」掲載

 

 南国市の白木谷。どこにでもありそうな山里に、今、ぼつぼつと人びとが集まってくる一角があります。昨春ここに誕生した風変わりな「美術館」を目当てに、物珍しさも手伝ってか、美術好きの人々が県内外から集まるようになったのです。
 これは木造倉庫を改修した手づくりの美術館であり、七年越しの私の「念願」だったものです。まだまだ未完成の美術館を眺めながら、「ここには父母から受けた愛情が濃密に塗り込められているのではないか」とふと思ったりもします…。
 一九四七年五月二十四日、父・武内繁寅、母・花子の三男としてこの白木谷に生まれた私は、父とは九歳で、母とは十六歳の時と本当に早い別れを味わってきました。にもかかわらず、今、振り返ってみると、この二人から受けた一つひとつの教えが実は大変に意義深く大切なものであり、そんな教えや周囲の人びとの支援、協力のおかげでこの“器”ができたのではないかと今更ながら思うのです。

 さて、この美術館誕生の「きっかけ」は一九九八年に白木谷で開いた「アウトドア・ワンマンショー」(野外個展)にさかのぼります。
 山より海に流れる岩石は揉まれ、摩耗し、強固な部分のみ残ります。最後は一粒の砂となり、そして海水に溶け、ナトリウム、カリウム、マグネシウム、カルシウム等のプラスイオンとなる─という「玉石」。その間何千年という時が経過するのですが、その時の流れを象徴的に、芸術的に「逆流」させて提示する野外彫刻展を開こうと考えたのです。
 二百十五トンの玉石を須崎市浦ノ内の採石場から片道一時間半をかけて白木谷に運びました。一個一個の玉石の面(つら)を見つめながら雨の日も風の日も積み重ね、両手首の腱鞘炎との戦いの日々が続きました。玉石百三十トンを使用した「風道─巡礼の風」、六十二トンの「紳士たちの昼食会」を制作し終えたとき、快い疲労の中で私の心の中にめらめらと燃える「火」のようなものを感じました。
 現在、この玉石作品は雑草に覆われて美術館の傍らに立っています。雑草を取り除くのは大変ですが玉石の姿は以前と少しも変わりません。
 しかし、雨が降ると少しずつ濡れ、その表情は微妙に変化してしっとりと落ち着いた「和み」の空間を与えてくれます。師・浜口富治先生はそんな玉石の作品を見て大層喜んで、
「白木谷 蝉哭(な)く里に玉石を 海より運ぶ 男ぞあはれ」
「父母(ちちはは)に 玉石積めば 蝉時雨」
「人生を 五十章に 夏鴎(なつかもめ)」
と詠んでくださったのです。
 美術評論家、ヨシダ・ヨシエ、中野中先生からも大変な評価をいただき、中野先生は一九九八年の「月刊ギャラリー」(十月号)にしっかりと記録に残してくださいました。
 この野外個展終了後、浜口先生と高知市城北町にあった寿司屋で食事をしながら、中央画壇の動きや私の制作の件などさまざまなお話をすることができました。席上、「武内よ、お互いに今やっている仕事を評価してもらえるまでには五十年はかかる。五十年先になっても評価してもらえなかったら、その時はおしまいヨ」と先生は珍しく冗舌でした。
 私たちの芸術運動の軌跡を何とか残せぬものかと思った私がふいに、「何十年かかるかわかりませんが、白木谷に美術館をつくります」と話すと、先生は「そりゃあうれしいが、なかなか大変ぞ。ちょっとやそっとの事じゃないぞ」。私は「親にもらった土地・建物ではないので、自由にやれます。何とか頑張って設立したいです」とお話しし、これが美術館の第一歩となりました。

 その後、着工までには時間がかかりましたが、二〇〇二年からアトリエ、倉庫の改装工事に着手し、毎日深夜まで作業が続きました。長男夫婦、孫、妻の弟や姪が里帰りしてきても結局、作業の手伝いです。三十ミリの断熱材を積み重ねた上で寝させたりもしましたが、ありがたいことに誰一人文句も言わず耐えてくれました。美術館として機能するには、アトリエ、倉庫の改築だけでは狭く増築しなければならないのですが、北京オリンピック前と重なり建築資材はあっという間に高騰し、建物が完成できるか…と不安の日々が続きます。何十回となく挫折しかかったのですが、知人らにも励まされ心身ともに苦しい作業を続けました。
 特につらい作業は天井、壁面に断熱材を張る作業でした。脚立にあがり高い天井の寸法を取り、妻がノートに控える。それを読み上げてもらい、断熱材を切って裏に接着剤を塗り、天井の垂木の間にはめ込む…そのほか、今は思い出したくもない大変な作業が延々三年七か月も続きました。

 着工から七年、やっと二〇〇九年五月一日、金曜日仏滅の日に木造倉庫の展示場「白木谷国際現代美術館」を開館しましたが、その十日ほど後の五月十三日が浜口富治先生との悲しいお別れとなりました。奥様より寄贈していただいた先生の作品「生きた日のモニュメント」(油彩、二〇〇号)二点は、「武内、骨になるまで毎日しっかり頑張れ」という先生の熱いメッセージではないか…そう思って大切に展示させていただいています。

 今、第三回白木谷国際現代美術館企画「今だからこそ・今・武内光仁の世界」を開催しています。今回展示した「八白土星─さまざまな出会い、そして別れ、時が刻まれるままに」は、一九九八年制作の立体作品です。宇宙のエネルギーを根からしっかり吸収するため、根付きの木四本を逆さに立て、その内の三本の木には〈時〉を刻む時計をはめ込んだ作品です。東京・新宿のアンファンで開いた個展の出品作で、美術評論家、中野中先生が「展評」〇〇二号で「前衛土佐派は死なず」と評価してくださったもので高知は初公開。ほかに四十点の自作を展示すると同時に、稲毛嘉子一点、島村義一二点、高崎元尚二点、竹村晴夫二点、浜口富治三点、吉村喜博二点、渡辺一八大(いわお)六点…と収蔵品中心に各先生の名作も展示しています。
 苦しみながらやっと開館した「白木谷国際現代美術館」は、よりよい美術館を目指して未だに建設中なのですが、寒桜、梅、桃の花咲く頃、二月一日には屋外展示場も開館します。入り口から屋外展示場まで車椅子で通行できますし、休憩所も設置、様々な花の香りや新鮮なオゾンを体いっぱいに吸収できます…。

 美術館建設という「壮大」な夢も一段落。「これでやっと昔のように深夜まで自分の制作に没頭できる」という不思議な充足感が心に満ちている今、もうすぐ始まる中国・上海でのグループ展に向けた制作に励まなければなりません。そして、これまでご高覧いただいた数多いお客様からのアドバイスや励ましのお言葉を大切にしながら、ご協力をいただいた作家の先生方への感謝を忘れず今後も見応えのある企画展を、と念願しています。

(財)高知市文化振興事業団         
「文化高知」2010年1月NO.153号に掲載

 

白木谷国際現代美術館ホームページ
http://shirakidani.jpn.cx

(たけうちみつひと/白木谷国際現代美術館代表)

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